<宿坊研究会レポート03>世界唯一の旅行大国を作った宿坊の歴史

■日本遺産の成立

文化庁が今年新たに新設した「日本遺産」。これは地域に点在する有形・無形の文化財をパッケージ化し、世界に発信することで地域活性を図るプロジェクトです。この日本遺産の大きな特徴のひとつは、個別の史跡や文化財などを点で取り上げるのではなく、分散した地域をストーリーでまとめ上げ、面としてクローズアップすることが挙げられます。例えば今年認定された「近世日本の教育遺産群」は、茨城、栃木、岡山、大分の旧教育施設で構成されています。隣接地域でさえない広範囲に渡る名所を横串で紹介できれば、旅行コースにはこれまでにないバリエーションが生まれてきます。

■日本の参拝旅行の発展と宿坊の成立の歴史

私は宿坊の歴史こそ、この日本遺産にチャレンジするのに十分な価値を持っていると考えています。そもそも宿坊の成り立ちは、平安時代に遡ります。延喜7年(907年)の宇多法皇御幸(ごこう) を皮切りに、多くの上皇が訪れた熊野。当時は宿泊施設が整備されていなかったため、しばしば寺社が宿泊施設として使われました。永保元年(1081年)に熊野に参詣した藤原為房(ふじわらのためふさ)が記した『大御記(だいぎょき)』には、道中に和泉国府南郷の光明寺というお寺に宿泊したことが記録されています。参拝者の宿泊を生業とする宿坊の原形は、平安後期の公卿(くぎょう) で左大臣まで務めた藤原宗忠(ふじわらのむねただ)の『中右記(ちゅうゆうき)』に初出します。天仁2年(1109年)の熊野詣の際、本宮では修理正寺主房(しゅりしょうじしゅぼう)、新宮では鳥居在庁(とりいざいちょう)、那智では寂定坊(じゃくじょうぼう)に泊まったことが書かれています。さらに参拝旅行が発達するにつれ、石清水八幡宮、賀茂神社、日吉大社などにも同様の宿が登場します。こうした宿坊は当初、貴族階級の宿泊が中心でした。しかし鎌倉時代には武家に広まり、室町時代には農民までが師檀関係を結んでいきます。そして江戸時代の中・後期に入ると日本は、世界でも類を見ない一般庶民にまで旅が浸透した旅行大国となっていきます。政治が安定し、貨幣経済が普及し、主要街道が整備されました。参勤交代の道中費用は諸大名の年間支出の5~10%を占めましたが、これはそのまま街道や各宿場街の整備拡張へとつながっていきます。こうしたハードが整い、さらに情報が庶民の手元に届いたことで、宿坊は網の目のようなネットワークを構築していきます。宿坊は単に、お参りに来た参拝者を泊めるだけの宿ではありませんでした。全国各地に出かけては所属する寺社のご利益を説き、道中のルートや宿の紹介、現地での世話を一手に引き受ける旅行会社のような役割を見せます。さらに画期的なのは加入者間で積み立てたお金で代表者が参拝に出る講の結成に尽力し、裕福でない庶民が現実的に旅行に出かける手段まで作ったことです。
最盛期の伊勢神宮では、御師の宿は800軒を数えていました。また修験道の聖地として篤い信仰のあった山形県出羽三山の手向地区には、336坊が軒を連ねています。江戸からお参りしやすい神奈川県の大山は関東一円で70万軒にも上る世帯が講に加入し、その他も日本各地で宿坊街は活況を呈していきます。当時の旅行とはほぼ寺社への参拝を意味しており、宿坊は日本の旅に情報と仕組みを流通させる上で大きな役割を果たしました。そしてそれは50日間で362万人が伊勢を訪れたという宝永のお蔭参り(1705年)や、葛飾北斎の富嶽三十六景、歌川広重の東海道五十三次、十返舎一九の東海道中膝栗毛など、日本を代表する芸術の土台などにもなっていきました。

■日本各地の宿坊の連携が広域日本遺産の可能性に

本には現在まで宿坊街として続いている寺社はもちろん、今では宿坊の無い地域も多くあります。しかし近年になって富士山麓や富山県の立山など多くの宿坊が失われた場所でも、歴史の掘り起こしや活用に目を向けた事例が増えています。この歴史の輪を真剣につなげていけば、日本中をほぼすべて網羅できるほどです。日本遺産の運用はこれからが本番です。初年度は18件が認定を受けましたが、文化庁では2020年までに100件程度にまで増やすことを目標とされています。
そしてもし日本遺産として登録されれば、日本を代表する旅行コンテンツとして様々な支援を受けることもできます。一般の人間にとっては「宿坊」と言う言葉さえ知らない方は多く、寺社巡りが趣味の人でも宿坊が世界に類を見ない旅行国を作ったことは、ほとんどの方が知りません。日本各地の宿坊街が手を組めば、これはこれまでにない最大規模の広域日本遺産になる可能性もあります。もちろん登録できなかったとしても、日本の旅を作った宿坊ストーリーが広まれば、既存の宿坊にとっても新しく宿坊を始めようという寺社にとっても追い風になります。深めれば深めるほど可能性が広がる宿坊の歴史。世界に向けて宿坊を発信する上で、根っこを掘り下げる作業も求められています。

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